連載 交野の歴史を訪ねて                         

今に残る条里制
交野の奈良時代@

交野市南星台在住  米田昭一


 交野市役所や公共機関などで、片山長三氏が描かれた平安時代後期の交野地方の想像画を目にした人から「説明して欲しい」といわれることがあります。
 大化改新で公地公民の理想を掲げ、田を国民に分配し、死亡すればこれを国に収め、子どもが六歳になると授ける班田収授法が施行されました。それに伴って、交野地方では天野川流域が一条の私市から十条の枚方市駅周辺まで区切られていました。その名残りはいまでも地名やあぜ道・道路として残っています。
 その中心に交野郡衙がおかれました。なぜ郡門(郡津)に郡衙がおかれたのでしょうか。まず、一条から十条までのほぼ中央にあり、背後の山麓には、機織りを主生業とし、勢力を持っている渡来系の集落(機物・畠田・畠山)があり、その中心地の集落である機物(倉治)に近いことです。それゆえに、郡津の地は、稲作と機織りの接点としての場所であったと思われます。白鳳時代には、その郡司が建てた「長宝寺」が姿を見せていたはずなのです。
 そして、いつの日か忘れ去られ、田や家ができました。長宝寺跡には郡津神社が建っています。
 京阪私市線に乗って、山側を眺めてみると、条里制の名残の道を見つけることもできますよ。ちょうど、これからがよく見える時期でしょう。


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