交野の戦争遺跡

 15年戦争の時代、交野は農村地帯であり、空襲の被害などはありませんでした。しかし、今は大阪城公園となっている「大阪陸軍砲兵工廠」や、枚方の陸軍禁野弾薬庫枚方製造所香里製造所などの砲弾や火薬をつくる一大軍事工場と深いかかわりがありました。再び戦争の惨禍を起こさないようにという願いから、これらを記録します。


大阪陸軍砲兵工廠
 1870(明治3)年設立。陸軍直営の兵器工場として、大砲など(火砲・弾丸・信管・薬莢・鉄材)重量兵器を生産。その金属工業技術は高く評価されていた。
 敷地は城東区にあるJR・地下鉄の車庫、森ノ宮の公団住宅、ビジネスパークのすべてを含む約40万坪。最盛期の従業員数は68,000人。
 終戦の日前日の大空襲で壊滅。現在は大阪城公園となっているが、まだ残っている建物もある。
 淀川や片町線などで、枚方・交野の戦争施設と密接に結びついていた。

陸軍禁野火薬庫
陸軍禁野弾薬庫跡 日清戦争の最中、1894(明治27)年に用地買収がはじめられ、1896(明治29)年に完成。綿火薬庫、弾薬庫、付属舎など20数棟が建ち、それぞれが高い土累で囲まれていた。大阪砲兵工廠と宇治火薬製造所を淀川で結ぶ場所として選ばれた。火薬をつめた砲弾はトラックで運ばれ、船着き場から積み出された。
 1909(明治42)年に爆発事故があったが、地元の反対にもかかわらずその後も拡張が続けられた。今の中宮第2〜第4団地から市民病院あたりまでを含む広大な敷地である。
 1939(昭和14)年3月1日、大爆発をおこした。午後2時45分、砲弾解体作業中の工員の過失で砲弾が爆発。それが次々と大爆発を誘発し、4時間の間に29回の爆発がおこった。同時に火災も発生した。15号倉庫はほぼ全焼。近隣の集落にも延焼し、住民は交野や守口から大阪市内まで避難した。3日正午ごろ鎮火。死者は 94名、負傷者は約 602名、家屋の全半焼は約 821戸、被災世帯4425世帯におよぶ。

詳しくは枚方の戦跡ウォークをご覧下さい

大阪陸軍造兵廠枚方製造所
 昭和12(1937)年の日中戦争以後、大阪砲兵工廠は3製造所(火砲・弾丸・鉄材)から5製造所(火砲・弾丸・薬莢・鉄材・信管)に拡充。 1938(昭和13)年1月、禁野火薬庫の東となりに枚方製造所を設立。今の小松製作所の敷地にあたる。
 100万平米をこえる敷地に9つの工場が建ち、最盛期には30,000人の工員が昼夜交代で主として大・中・小口径の砲弾など(砲用弾丸・爆弾・信管・火具)の製造をしていた。
 倉敷紡績枚方工場も同天の川工場になったほか、大阪市の中島工場、伏見工場、米子工場を含めて日本最大の砲弾工場となった。

香里製造所
 1939(昭和14)年戦争の拡大に伴い弾薬の製造拡大のために、宇治火薬製造所香里工場として設立。陸軍が砲弾などに使用する火薬を製造する日本有数の火薬製造所として発展した。
 香里は、人家が少なく、交通の便がよく、山と谷がはっきりしていて誘爆を防ぐ地形であることから選ばれ、土地を強制買収し、年末には火薬製造が始まった。
 昭和17(1943)年、独立。 140haの敷地に 230棟の建物が建ち、約5000人が働いた。この中には交野国民学校高等科生の勤労動員も含まれる。
 宇治から送られてきた湿薬を乾燥させ、枚方製造所で作った砲弾につめ、禁野火薬庫で貯蔵された。妙見山配水池に残るエントツは、火薬を乾燥させるためのスチームのボイラーのエントツである。
 輸送には片町線の引き込み線が使われ、徴用工や動員学徒などの輸送には京阪電鉄があたった。

星田〜香里軍用側線
側線跡は今は道路になっている 明治31年4月12日、四条畷・長尾間に関西鉄道として開通。
 明治40年10月1日、国鉄に編入。関西本線の支線、片町線になった。
 昭和16年9月21日、星田駅から旧陸軍香里火薬製造所へ通ずる陸軍専用鉄道(3845m)が開通。軍需品の輸送や工員の通勤に利用された。
 昭和19年10月、列車の回数も減り、金属回収のため、星田駅の待合所も一部撤去された。
 昭和23年10月頃 、香里側線は撤去された。
   (交野町史2巻、P.147〜148、他)
※ 津田駅からも枚方製造所に側線が敷かれた。これは、ほぼ現在の国道307号線にあたり、一部は平和ロードとして保存されている。

「陸軍用地」の石柱。今残っているのは、この1本だけである。  用地買収について、次のような話がある。昭和14年12月2日、関係土地所有者が印鑑を持参し村役場へ集められた。憲兵下士官が「土地を軍に返還せよ」と言い、価格の記載のない書類に押印させたと言う。この後、買収した土地の境界に「陸軍用地」の石標が立てられた。







中村中尉鎮魂碑
中村中尉鎮魂碑  昭和20年7月9日、硫黄島から来襲したP51機に伊丹飛行場から日本機が迎撃した。正午すぎ、中村純一少尉(鹿児島市出身)機が空中戦で撃墜され落下傘で降下中、米機の翼によってそのひもを切られて星田駅付近に落下した。交野での空中戦はめずらしく、当初米機が落ちたと思った村人がかけつけると、日本兵がたんぼに頭からつっこんでいた。機体は枚方市高田に落ちた。看護婦が村役場の前の中川の水で体を洗い、光林寺に安置した。
 昭和51年10月7日、「遺族通信」で遺族の記事を発見し連絡。後に鎮魂碑を立てる。
享年23歳。後に陸軍中尉に昇進。

学童疎開受入寺
 戦時中、私部の無量光寺・想善寺・光通寺、郡津の明遍寺、倉治の善通寺、星田の光林寺・慈光寺・光明寺が津田町の8寺とともに大阪市内の大宮国民学校の学童疎開を受け入れた。昭和19年9月17日に児童 320人が教諭14人、寮母22人とともに集団疎開してきた。
  無量光寺 光通寺 想善寺 明遍寺 善通寺 光林寺 慈光寺 光明寺 20年2月に6年生が卒業で帰り、3月に新3年5月には1・2年も迎えた。
25 12 15 14 11 17 17 10
18 8 17 11 11 16 5 9
43 20 32 25 22 33 22 19

 戦争が終わっても、市内の治安回復や食糧事情を考慮して、疎開児童の引き揚げは11月まで延期された。

私市興亜拓殖訓練道場
 1931年の満州事変に続く、翌年の「満州国」成立とともに内地から拓殖民を多数送り出すという政策のもとに、昭和16(1941)年3月10日、現在の私市植物園があるところに「大阪市立興亜拓殖訓練道場」が設けられた。
 ここで訓練を受ける移住希望者は、教員・学生・男女壮年団員・転配業者・工場労働者・給料生活者等多種多様であった。
訓練要目として、@教学訓練:国体観念の注入・満蒙の人文・海外事情など、A尚武訓練:武道・軍事教練・行軍・馬術・水練など、B農事訓練:開墾・土木・植林・家畜飼育などがあった。敷地には包(パオ)の形に似た円形の日輪兵舎が10棟建ち、2階が寝所、下に食堂・訓練所があった。ここから大陸に向かった拓殖民は、終戦直前までに50万人をこえたと言われている。なお、現在もかつての講堂と事務所がほぼ戦前の姿で現存している。                           以上、交野市史(復刻篇)
1994年3月、旧講堂・事務所とも老朽化のため撤去された。

満蒙開拓青少年義勇軍
 国民学校高等科卒業年次(14〜15歳)の子どもたちに対して、担任教師が義勇軍に参加するように勧めた。
 大阪では、大阪府・大阪市少年義勇軍を編成し、私市で2週間訓練の後、茨城県の内原訓練所で2カ月間の訓練を経て満蒙に送出した。
茨城県内原訓練所は、14歳から17歳までの青少年を短期訓練するために設立。毎日太鼓とラッパの合図で生活し、炊事、裁縫、鍛工、木工、製炭、畜産、開墾、農作業、軍事教練など、厳しい訓練が続いた。
 面積は40町歩、10000人を収容できる全国施設で、昭和13年3月1日に日輪兵舎が建てられ、全部で325棟あった。(1棟で60人収容)
 2階の寝室では、足を内側にして寝ていた。それは、より多くの人が寝られるからである。

砲兵工廠の植物油脂疎開
 大阪陸軍砲兵工廠は、昭和19年秋ごろから軍事物資などの分散疎開を開始した。植物性油脂類は、千里山丘陵と星田の山裾にかくすことになった。千里山には1000ドラム、星田には 500ドラムが約2ヶ月かかって移転された。
 場所は特定できないが、取材によると@近くに神社があった。A川を渡って右に折れた。B入口が狭いので、進入路を広げた。C木におおわれていたので、神社も下の村も見えなかった。これらのことから、今の妙見東3丁目あたりではないかと思われる。
   「大阪砲兵工廠の八月十四日」(東方出版)12ページ

八紘一宇石柱(郡津神社)
八紘一宇の石柱  太平洋戦争で、全世界を天皇のもとにひとつの家にするという意味で八紘一宇(八紘とは八つの隅、一宇とは家のこと)というスローガンが叫ばれた。この言葉は神武天皇が橿原の宮で即位した時に述べたとされる「日本書紀」の言葉をもとに作られた。郡津神社に残っているこの石柱は昭和18年3月10日に、帝国在郷軍人会交野村分会によって建てられた。しかし、今は文字が塗りつぶされている。











忠魂碑(住吉神社)
忠魂碑 陸軍大将鈴木荘六書、とある。 日露戦争前後に、現役として服役していない軍人の団体として、日本各地に在郷軍人会が作られた。この会の目的は軍事知識の普及や国家観念の養成を担うためだった。その一環として、旧村単位で忠魂碑が建設された。私部の住吉神社の一角に、昭和8年4月に作られた忠魂碑が残っている。
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